原発を動かすべきかどうかという議論を見ていると、まともな議論になっていない気がしてならない。
まず、前提条件として、100%の安全はあり得ないことを理解しておく必要があるだろう。どんなに安全対策をしようとも、隕石が落ちて来て原子炉が破壊されるような、数十万年に一度の大規模事故を防ぐまでの安全対策は出来ないだろうし、出来たとしてもコスト的には無理だろう。
だとしたら、どの辺までの事故リスクが許容範囲であるかという議論になる。
元々、原発の安全対策をする際に、シビアアクシデントの発生確率を計算して対策を行っているはずである。たとえば、外部電源喪失の発生頻度は○○年に1度、非常用発電機の故障発生頻度は○○年に一度といった具合である。これらの数値を基に計算すれば、現在再稼働を考えている原発のシビアアクシデント発生頻度は数値で示せるはずだ。
たとえば、あくまでたとえばの話だが、これまで 大飯原発のシビアアクシデント発生頻度は1000年に一度だったものが、応急対策で10万年に一度になりました。さらに本対策を行えば100万年に一度になりますといった具合である。
数値を基に議論をしようとすると、福島の事故の前は、数万年に一度しか起こらないと言っていたのだから、数値自体が当てにならないという意見も多数あるだろう。しかし、他の方法で議論する方法が果たしてあるのだろうか。福島の事故を基に、数値の精度を高めて、それを基に原発事故のリスクと、稼働のメリットを天秤にかけるしか無いだろう。
もちろん、1億年に1度だろうと、起これば深刻な事故になるのだから、可能性が0でない以上動かすべきでないという意見もあるだろうが、現状の世論を見れば、動かす動かさないの中間で悩んでいる人の数は相当多いはずだ。
「安全になりましたら、地元の理解があれば動かします。」 とか
「今年の夏も節電は大変だから、とにかく動かしてくれ!」 とか
「事故が起こったときうちの県も大変だから、話を聞いてくれ」 とか
ハッキリ言って中身も無ければ、耳を傾ける価値すら無いどうでも良い話である。
具体的な数値を示し、その上でメリットデメリットを国民全体が考える。
その世論をくみ取って意思決定する。
こんなごく当たり前のことが、全く出来ないのは非常に悲しい。
特にマスコミには頑張ってもらいたい。
まず、前提条件として、100%の安全はあり得ないことを理解しておく必要があるだろう。どんなに安全対策をしようとも、隕石が落ちて来て原子炉が破壊されるような、数十万年に一度の大規模事故を防ぐまでの安全対策は出来ないだろうし、出来たとしてもコスト的には無理だろう。
だとしたら、どの辺までの事故リスクが許容範囲であるかという議論になる。
元々、原発の安全対策をする際に、シビアアクシデントの発生確率を計算して対策を行っているはずである。たとえば、外部電源喪失の発生頻度は○○年に1度、非常用発電機の故障発生頻度は○○年に一度といった具合である。これらの数値を基に計算すれば、現在再稼働を考えている原発のシビアアクシデント発生頻度は数値で示せるはずだ。
たとえば、あくまでたとえばの話だが、これまで 大飯原発のシビアアクシデント発生頻度は1000年に一度だったものが、応急対策で10万年に一度になりました。さらに本対策を行えば100万年に一度になりますといった具合である。
数値を基に議論をしようとすると、福島の事故の前は、数万年に一度しか起こらないと言っていたのだから、数値自体が当てにならないという意見も多数あるだろう。しかし、他の方法で議論する方法が果たしてあるのだろうか。福島の事故を基に、数値の精度を高めて、それを基に原発事故のリスクと、稼働のメリットを天秤にかけるしか無いだろう。
もちろん、1億年に1度だろうと、起これば深刻な事故になるのだから、可能性が0でない以上動かすべきでないという意見もあるだろうが、現状の世論を見れば、動かす動かさないの中間で悩んでいる人の数は相当多いはずだ。
「安全になりましたら、地元の理解があれば動かします。」 とか
「今年の夏も節電は大変だから、とにかく動かしてくれ!」 とか
「事故が起こったときうちの県も大変だから、話を聞いてくれ」 とか
ハッキリ言って中身も無ければ、耳を傾ける価値すら無いどうでも良い話である。
具体的な数値を示し、その上でメリットデメリットを国民全体が考える。
その世論をくみ取って意思決定する。
こんなごく当たり前のことが、全く出来ないのは非常に悲しい。
特にマスコミには頑張ってもらいたい。
